グイノ・ジェラール神父の説教
2016 C 年
年間の主日
第2〜第12
年間第2主日
年間第3主日
年間第4主日
年間第5主日
年間第10主日
年間第11主日
年間第12主日
年間第2主日 C年 2016年1月17日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ 62,1-5 1コリント 12,4-11 ヨハネ 2,1-11
イスラエルの民と神が結び合う契約、そしてキリストと彼の教会を親密に結び合う契約は「婚礼の契約」であると聖書全体は教えています。 人間の弱さや裏切りや不貞にもかかわらず、この契約は忠実であり、断り難い、解消できないものです。 キリストの教会を通して、すべての人に神の永遠の愛が提供されています。 そして神の限りのない愛は、すべてに及ぶので神だけがキリストの教会の境をご存知です。
カナという村の結婚披露宴を切っ掛けに、イエスは水をぶどう酒に変化させました。 しかしそれだけではなく、この日、イエスは参加していたすべての人々の関係と役割も変化させました。 この大切な事実を見せるために、聖ヨハネは自分の書いた話の中で事の次第を細かく説明しました。
母マリアは、一人の招待された者であったにもかかわらず、食事の管理の責任を取ります。 そのうえ、家の持ち主の役割も奪い、披露宴の係の召使たちに「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と命令します。 そこでイエスも「この六つの水がめに水をいっぱい入れなさい」と、召使たちに命令します。 彼らはイエスの突飛な願いを、どうしてこのような願いをするのかと、疑問にも思いませんでした。 また、自分たちを弁明するために「忙しいのでこの場違いの願いを実現する時間がありません」とは、言いませんでした。 確かにこの六つの水がめの水は、清めの為の水で、食事の前に招待された客が手と足を洗うように置かれているのです。 今更、食事中にこの六つの水がめに700リットルの水を入れること、そしてその水を管理人に味見させることは無意味です。 しかし、召使たちは時間を掛けて、言われた通り水がめに水をいっぱい入れました。 その結果すべてがひっくり返り、人々の社会的な関係と役割も一変させています。
ぶどう酒に変わった水は、このひっくり返しのしるしです。 食事の順序を担当する管理人は、何も分からずに花婿を呼んで「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」と言います。 しかし、結婚の日の披露宴中に、食事の順序に心を配るのは花婿の役割ではありません。 それは管理人の役割であり,彼の責任です。
聖ヨハネはこの奇跡を通して、イエスによってどのようにして神が私たちを変容しようとするかを教えています。 聖パウロはコリント教会の信徒に送った手紙の中で神の驚くべき救いのやり方を説明します。 「すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人ひとりに『霊』のはたらきが現れるのは、皆さんの利益となるためです」(参照:1コリント12,6-7)と。
従って、イエスの最初の奇跡が、ぶどう酒に変わった水の出来事にあるだけではなく、カナの婚礼の披露宴中に起こった全ての変化でもあります。 イエスの望みは公に水をぶどう酒に変化することではありません。 イエスが望むのは、人の心が変化することです。 神はいつもすべてを新たにするからです。 イエスはまた婚礼の喜びが消えないように望みます。 つまり、良いぶどう酒が人の盃を満たすように、婚礼の喜びがすべての人の心を満たすようにと望みます。
カナの奇跡は、婚礼の雰囲気が崩れないように、すべての人が一致して努力したということです。 皆の協力は、イエスが望む愛の契約を実現し現します。 カナの婚礼は全人類と神が結び合う喜びの契約を啓示します。 カナの村でイエスが教えたのは、次のことです。 つまり、もしイエスの言葉を聞くなら、またイエスが言われた言葉を実行するなら、無理だと思われることであっても簡単に可能となる、ということです。 私たちの間に住まわれたイエスのお蔭で、人々が一致すること、助け合うこと、喜びのうちに良いものを分かち合うことが出来るのです。 神が私たちに示す愛はカナのぶどう酒のようです。 神の愛は人を惑わせる神秘的な賜物であり、そして完全な喜びに導きます。
持っているものが違うにもかかわらず、私たちがありのままに互いに出会うことを学ばなければなりません。 なぜなら、私たちは完全な者となるために互いを補い合う人物であり、取り替えられない人物です。 私たちは一致して、神の計り知れない愛と慈しみを表すように造られた人間です。 アーメン。
年間第3主日 C年 2016年1月24日 グイノ・ジェラール神父
ネヘミヤ8,1-6、8-10 1コリント12,12-30 ルカ1,1-4、14-21
ネヘミヤ記は私たちに神の言葉を聞くことの大切さを思い起こさせます。それと言うのも、神の言葉を受け取る人たちにとっては、その言葉は喜びと刷新の泉です。開かれた心で神の言葉を受け入れる時、神の言葉がどれほど豊かさをもたらすかについて、聖パウロは今日の手紙を通して説明します。また、神の言葉は今ここにあり、そして言われたことを毎日実現するとイエスは教えています。
神の言葉は本当に「命と希望の泉だ」ということをイスラエルの民は何度も体験しました。バビロン追放の時、イスラエルの民はすべてを失いました。先ず約束された地を失い、国を治めた王と指導者たち、そしてエルサレムの神殿までも失いました。しかし、追放の地でも、彼らは神の言葉を聴く習慣を守っていました。モーセの律法と預言者たちの教えを聴くことによって、神が自分たちを絶対に見捨てないこと、そしていつか自分たちの国に帰るように神が準備していることをイスラエルの民は予感していました。神の言葉を聴くことによって、追放された人々の心に希望の実が現れ、それが成長しました。追放された民に自分の罪を啓示しながら、同時に神の言葉は確かにイスラエルの民に慰めと大きな希望を与えました。「悲しんではならない。主の喜びこそあなたの城壁である」(参照:ネヘミヤ8,10)と律法学者のエズラは励ましています。信仰を持って自分の心の奥底で神の言葉を受ける時、必ず神の喜びが城壁のように私たちを取り囲み守るのです。
神の言葉は絶対に過去のものではありません。聞いた途端に、神の言葉が働くのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4,21)とイエスは断言しました。そのために教会が教え、勧めていることは次の三つのことです。毎日神の言葉を聞くこと、読むこと、そして黙想することは大切であり、またとても利益になります。神の言葉は、今の出来事について目を大きく開かせると同時に、私たちにいつくしみで満たされた新しい眼差しで人々を歓迎させるのです。み言葉によって養われた母マリアのように、神の言葉は私たちの知恵を照らし、私たちの唇と心から溢れなければなりません。
ミラノの大司教であったマルティニ枢機卿は、力強く次のことを述べました。「神から離れている、とても複雑で難しい社会の中で生きている今、キリスト者たちにとっては、自分の信仰を守るために、どうしても、神の言葉で個人的に自分を養うことが必要であり、肝心なことだと私は信じます」と。
もし私たちがキリストの神秘的な体の部分であるなら、父である神が毎日私たちに言われることを聞かなければなりません。「主よ、お話しください。しもべは聞いております」(サムエル上3,9)と言った若いサムエルの言葉が、私たちの自発的な願いでなければなりません。神の言葉を定期的に聞くこと、それをゆっくり黙想することによって、この言葉こそ「喜びの城壁」(参照:ネヘミヤ8,10)であり、「わたしたちの歩みを照らす光」(参照:詩編119,105)、そして「命の泉」(参照:ヨハネ8,51)であることを私たちは悟ることができるのです。
このような理由で、モーセはわざと次の命令をイスラエルの民に与えました。「今日こそ、主の声を聞くなら心を閉じてはならない」(参照:詩編95,7)いつくしみの特別聖年の間に、世界の出来事と神のみ言葉を通して、神が私たちに語ることを益々注意深く聞く人になりましょう。また喜びで満たされたキリストの証人となるために、聖霊ご自身が私たちの内に神のみ言葉への飢えと渇きを強く引き起こしますように。アーメン。
年間第4主日 C年 2016年1月31日 グイノ・ジェラール神父
エレミヤ 1,4-5,17-19 1コリント12,31-13,13 ルカ 4,21-30
色々な村を訪れてから、イエスは自分の故郷に戻ります。 イエスの評判があちらこちらに広まったので、ナザレの人々は村で育った同郷の人として、イエスに最大級の敬意を払います。 ナザレの人々にとってイエスは自慢だったので、ヨセフの子イエスを温かくもてなします。 確かにイエスはナザレの人々に属し、この村の誉れです。 一体、イエスはこれよりも他に何を望むことがあるでしょうか。
しかし、驚くことにイエスはナザレの人々の歓迎とおもてなしを断ります。 「はっきり言っておく。 預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」つまり、「わたしはあなたたちから何も望みません」とイエスは言いました。 そこでイエスを歓迎するために集まっていた人々は当然強く憤慨し、総立ちになってしまいます。 ナザレの人々がイエスに「あなたが私たちを無視して捨てるなら、私たちもあなたを捨てます」と答えたのは、私たちには当然のことです。 従って、彼らはすぐイエスを町から追い出そうとします。
どうしてイエスは、ナザレの人々のもてなしと故郷に帰る時の喜びを拒んだのでしょうか。 どうしてイエスは、暴力的な態度を取るほどまでに彼らを興奮させたのでしょうか。 いくらナザレの人々が良い歓迎ともてなしをイエスに与えたとしても、イエスはもはやナザレの人ではありません。 イエスは神の預言者であり、神に遣わされたメシア、救い主です。「わたしの母とはだれか。 わたしの兄弟とはだれか」(マタイ12,48)とイエスはわざと繰り返し言います。 イエスはエリヤとエリシャのような預言者です。 もちろん預言者たちも生まれ故郷を持っていますが、彼らの使命はすべての人々の心を神に向かわせることです。 すべての預言者は、自分の国、故郷、家族よりも、神のメッセージを大切にして、言うべき神のメッセージをはっきり表す人です。 預言者の家庭や以前に従事していた仕事を見て、それだけで彼を判断するのは、その預言者を殺すことです。 「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とイエスが言ったので、ナザレの人々はすぐに彼を殺そうとしました。
出エジプト記によると、光が暗闇をつらぬく真っ黒な雲が、エジプト人の軍隊とイスラエルの民を互いに近づけないように離れさせるために、降って来たと書かれています(参照:出エジプト14,20)。 この矛盾している「光輝く深い暗闇」のイメージのうちに、教会の教父たちはキリストの神秘を見抜いているのです。 つまり、ナザレの人々はイエスのうちにヨセフの子であり、大人となった一人の人間しか見えませんでした。 これこそキリストの神秘の暗闇の側です。 しかし、信仰の眼差しでイエスを見る人は「光輝く深い暗闇」のうちに、輝いている神の光を見、また信じる人は「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形を取って宿っている」(参照:コロサイ2,9)ことを見るのです。 これこそはキリストの神秘の輝く側です。
ナザレの人々にイエスは預言者エリヤとエリシャの歴史を思い起こさせます。 聖霊が二人に与えた優れた賜物をただ二人の異邦人だけが認めました。 それはサレプタの貧しいやもめとシリヤ人のナアマンでした。 彼らは一人の人間を見ただけではなく、この人間の内に働いている神の力をも認めました。 イエスは大工の息子よりも、ヨセフの子よりも、預言者よりも偉い人です。 イエスは「肉となった神の言葉」(ヨハネ1,14)であり、ご自分の民を訪れに来られる神ご自身です。
ナザレの人々は歓呼から、あっと言う間に人を殺す憤慨の状態に変わりました。 ルカ福音書は、イエスに対してこの同じ反応をした人々について何度も語ります。 イエスの宣教活動の初め、群衆はイエスに夢中になってどこへ行くにも彼に従いました。 しかし三年後には、その群衆がピラトにイエスの死刑の宣告を願うのです。 結局、イエスの預言的な使命を拒否する態度は殺意の妬みに変化しました。 確かに誰も、自分の故郷で預言者になれないのです。
新しい預言者として教皇フランシスコはいつくしみの特別聖年を十分に生きるために、私たちを招いています。私たちの最初の日々の情熱が、段々冷たい無関心に変化しないように気を付けましょう。 その誘惑を避けるために、豊かに私たちの内に神のいつくしみの神秘を受ける力を、たびたび聖霊に願いましょう。 なぜなら、神のいつくしみと愛は終わりがないものであり、そして私たちの永遠の遺産ですから。 アーメン。
年間第5主日C年 2016年2月7日 グイノ・ジェラール神父
イザヤ6,1-8 1コリント15,1-11 ルカ5,1-11
イザヤとパウロ、ペトロそして彼の仲間たちは、ある日神の神秘性を親しく感じました。 この神秘性を前にして皆が恐怖を感じたにも拘わらず、神が彼らに提案していた呼びかけに喜びを持って直ぐ応えました。 このようにイザヤは、エルサレムの神殿の中でご自分の栄光を啓示する神の現れの証人となります。 「災いだ。 わたしは滅ぼされる」と、イザヤが直ぐ叫びます。 しかし、彼は天使によって清められ、神に遣わされた者になるように自ら自分の意志で提案します。
ダマスコへの道でパウロは復活されたキリストと出会います。 苦悩の三日間の後、復活の証人と異邦の国の人々の使徒となるために、パウロは洗礼を受けます。 「キリストの愛がわたしを駆り立てています」(参照:2コリント5,14)と、パウロは言います。 自分たちの小舟にイエスを乗せることを賛成したペトロとその仲間たちは、不思議な漁を見てキリストのうちに働いている神の力の証人となります。 恐怖を感じた後、彼らはどこへでもキリストの後に従う決意をします。 確かに、「彼らはすべてを捨ててイエスに従いました」。
神と出会う人、また神の神聖を体験する人は、必ず主のために働く呼びかけを受け入れます。 この呼びかけが、その人をどこへ連れて行くかを知らないという恐怖と不安があっと言う間に深い喜びになり、その人が恐れずに進むように大きな力となります。 いつくしみの特別聖年の間、私たち一人ひとりが神と出会うという希望を持ちますように。 なぜなら、これこそ神ご自身の望みですから。 世を創るずっと前から神は私たちを愛しておられますし、その愛は永遠に私たちに与えられています。 神を見なくても、どれ程神が私たちを愛しているかを体験して、深く味わうことができます。 たとえ、私たちが神への感謝と愛を示すことが上手くできなくても、それは問題になりません。 なぜなら、神は私たちの心の中にある感謝と愛する望みを見抜かれますから。 神の意志を行い、神を見つけるための私たちの努力、そして神を愛そうとする私たちの深い望みを神はよくご存じです。
聖霊の力によって、神は私たちのうちに、そして私たちと共にご自分の救いの業を実現し続けます。 キリスト者の迫害者であったパウロの固い心に入られた神は、どのような頑なな心にでも入ることが出来るということを私たちは良く知っています。 ご自分の方へ人の魂を引き寄せるために、神は取るに足りない方法や思いがけない手段を使って魂の中に入り続けるのです。 たとえばある出来事、出会い、手紙、霊的な指導、年の黙想、赦しの秘跡などによってなど。 もし、私たちが小さな出来事に気を配るなら、必ず思いがけない状況の中に容易に神を見つけるでしょう。
「恐れることはない」とイエスは私たちに断言します。 「贖い主であるキリストにあなたの心の門を大きく開くのを恐れないでください。」と教皇ヨハネ・パウロ二世が宣言しました。 更に教皇フランシスコは、神のみ顔になるほど、いつくしみの神に近寄るのを恐れないように強く勧めています。 これこそ教会の声を通して神が私たちに委ねる使命です。 ですから、今年はいつくしみの不思議な漁を目指して、沖に漕ぎ出すために、自分の安全さと習慣的な行動から抜けだしましょう。 そうすれば、私たちは神の命の豊かさとその愛で満たされた力を見つけて味わうでしょう。
「父なる神がいつくしみ深いように私たちもいつくしみ深い者となるために」(参照ルカ5,36) 主は、毎日様々の出会いと日常生活の出来事を通して、私たちに呼びかけます。 ですから、神の招きを聴くことを拒否せずに、むしろ必要ならば主の後に行くために全てを捨てて従いましょう。 アーメン。
年間第10主日 C年 2016年6月5日 グイノ・ジェラール神父
列王記上 17,17-24 ガラテ 1,11-19 ルカ 7,11-17
旧約聖書の中では、二回だけ死者がよみがえったことを述べています。 まず、今日の話によれば預言者エリヤはサレプタのやもめの息子に命の息吹を与えました。 そして数年後に、エリヤの弟子である預言者エリシャは同じようにシュネムの婦人の息子を生き返らせます(参照:列王記下 4,24-37)。 新約聖書の使徒言行録でも、二回死者が蘇ったことを述べています。 聖ペトロの祈りのおかげで、ヤッファに住んでいたタビタという婦人が生き返り(参照:使徒 9,36-43)、聖パウロはトロアスに住んでいるエウティコという青年を生き返らせます(参照:使徒 20,9-12)。
福音書はイエスが三回、人を死から救い命へ導いたことを述べています。 彼らはヤイロの少女(参照:マルコ5,38-43)、ナインのやもめの息子(参照:ルカ7,11-17)、そしてイエスの友のラザロです(参照:ヨハネ 11,38-44)。 しかし、生き返ったこの七人(旧約二人、使徒二人、イエス三人)についての聖書の話は、イエスの復活の話と比べることができません。 なぜなら、この七人は暫くの間、命を受けたとしても、遅かれ早かれもう一度死にました。 しかし、復活したイエスはもう二度と死にません。 そして、栄光の体をもって永遠に生き続けるのです。
イエスや聖ペトロ、聖パウロ、預言者エリヤとエリシャが死者を生き返らせたのは、 ある意味で彼らに地上で生きるための時間を延ばしたと言えるのです。 生き返った死者は新しい種類の命を受けませんでした。 彼らは今までの命でもう一度生きている者となっただけです。 そういう訳で、群衆は自発的に、死者を生き返らせるこの不思議な奇跡の内に、ただ一つの珍しい癒しの奇跡を見ているのです。 勿論この癒し方が驚くべきだと思っても、それは単なる普通の癒しの仕方だけだと群衆は考え、それをはっきりと見分けています。
しかし、イエスの復活に関しては、すべてが違います。 生きたまま墓から出てきて、復活したイエスは生前と同じ命にこの世で生き続けるためではありません。 イエスは、もうこの命と全く関係のない者となりました。 イエスは死の傷から癒された人ではありません。 イエスは死に打ち勝った人です。 復活したイエスは、この世に属していない命に生きています。 また、この命は永遠です。 イエスは時の支配を知らず、年を取る事、疲れる事、弱くなる事や生活手段の不安を感じる事も全くありません。
復活したイエスは決定的に死に打ち勝ちました。 復活したイエスは、もう二度と死にません。 「死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。 死はもはやキリストを支配しません」(ローマ6,9)と聖パウロは証しします。 主の復活は、死に対する命の決定的な勝利です。 復活したご自分の肉を通して、イエスは新しい世界の創始者(そうししゃ)として、私たちにその世界を開きます。 もはやこの世は次第に滅びゆき、死と不幸の支配に従い、未来のない世界ではありません。 私たちの世界は救われ、新たに創造され、主の復活によって既に死を超えている世界であり、神の王国です。
ただ一人の人として復活されたイエスのうちに、悪の力と死は決定的に打ち砕かれています。 そして、イエスのうちに命は勝利の輝きを発しています。 聖書に述べられている蘇った七人の証しは、不思議な出来事であり、人々を感動させるかも知れません。 しかしこの奇跡は、ただ先触れとしてのしるしであり、キリストと私たち自身の復活に比べると不完全で、遠く離れたイメージです。
イエスこそが私たちの命であり、私たちは洗礼によって、キリストと共に死に復活されたので(参照:コロサイ2,12 )、私たちは命の充満に与かっています。 そういう訳で私たちはキリストと共に一つの体、一つの心、一つの魂となるために、いつも復活されたキリストの御体と御血をいただくことができます。 私たちの内に既に復活の業が始まっています。 ですから、神のいつくしみから無償で私たちに与えられた、この素晴らしい賜物のために、絶えず神に感謝しましょう。 アーメン。
年間第11主日 C年 2016年6月12日 グイノ・ジェラ−ル神父
サムエル下12,7-10、13 ガラテヤ2,16、19-21 ルカ7,38-8,3
ファリサイ人のシモンの家で行われた食事の話は、聖パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で言ったことを上手に証明しています。 それは「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって、神の前で義とされています」と。 シモンは律法を自分の生き方の土台としました。 シモンはイエスがただ歩いている単なる説教者であるか、あるいは「神の人」、つまり預言者であるかを知るために、イエスを食事に誘いました。
評判の悪い女の突然の訪れは、シモンの抱いた謎に否定的な答えをもたらしました。 預言者は、このような罪深い女が自分に触れることを絶対に許しません。 しかし、イエスは彼女の接吻、彼女の手の接触、彼女の注ぐ香油を何も言わずに少しも動じないで受け止めます。 律法に対して忠実であるシモンは、それを見て非常に衝撃を受け、イエスが絶対に預言者ではない、まして神が約束されたメシアではないことを判断しました。
律法に基づいて人々を裁くシモンに対して、赦す・回心させる・救う信仰でイエスは対抗し、シモンに提案します。 なぜなら、救い主イエス・キリストにおける信仰だけが、人を神の前で義としますから。 イエスはシモンを反省させる一つのたとえ話で彼に問いかけたのち、まだ泣いている罪深い女に希望と命を与える言葉をかけます。 「あなたの信仰があなたを救った。 安心して行きなさい」と。 イエスの足元で泣いている女は、たくさんの愛を示したので、彼女のすべての罪が赦されました。 というのは、彼女の信仰だけがこの愛を生み出し、この信仰だけが神の赦しを自分に引き寄せたからです。
そこでシモンと彼が招いた客たちは、イエスに対する自分の考えをどうしても直さなければなりませんでした。 もし、イエスが預言者でなければ、人の心の中にある考えを見抜き、そしてその人の罪を赦すこのお方はいったい誰ですか、と彼らが考えなければなりませんでした。 私たちが自分を弁明するために他の人を裁くことをしないようにと、イエスはご自分の言葉と態度によって招いています。 確かに、聖パウロと共に私たちも謙遜に告白しましょう。 「わたしが今、肉において(人間として)生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤ2,20)と。
私たちのために命を与えながら、限りなく私たちを愛したイエスにおける信仰なしには、救いがありません。 いくら人にレッテルを貼っても、たとえば「この人は馬鹿」「この人は賢い」「彼は何でも出来る」「彼は下手くそ」など、そのレッテルは役に立ちません。 人々を非難して裁くよりも自分の過ち、短所、罪を謙遜に認めて信仰に生きる方がよっぽど良いです。
「すべてを赦し、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐え忍ぶ」(1コリント13,7)喜び溢れる信仰をいつくしみの特別聖年が私たちに与えますように。 そして、一瞬一瞬ごとにすべての人に対して神の偉大ないつくしみを示すように学びましょう。 アーメン。
年間第12主日 2016年6月19日 グイノ・ジェラール神父
ゼカリア 12,10-11、13,1 ガラテヤ 3,26-29 ルカ9,18-24
今日の日曜日の三つの朗読の教えを受け入れるなら、メシアの役割についての様々のことが分かります。 預言者ゼカリアの証しによると、メシアという人物は苦しみを受けて死ぬことによって、人々の涙や悲しみ、嘆きを引き起こす人です。 同時に、メシアは人々を罪から洗い清め、そして彼らの上にいつくしみと祈りの聖霊を注ぐ人です。 聖パウロは、特にイエスにおける信仰がもたらす一致について、私たちの注目を集めようとします。 「もはや、ユダヤ人も異邦人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もありません」と聖パウロは説明します。 信じる人はキリストと一致しているので、その人は天国の遺産を受けるに相応しい人です。 最後に聖ペトロは、すべての弟子たちの名によって「イエスは神から遣わされた人であり、神が約束されたメシアである」ことを宣言します。 しかし、神の救いが世界の人々に与えられるためには、このメシアが苦しみを受け、死ぬべきことや復活することも必要不可欠です。
メシアについて教えられたこのすべての説明に、イエスは預言者たち、即ちイザヤ、ダニエル、エゼキエルらが述べ伝えた「人の子」が自分自身であるということを加えます。 世を裁くために「人の子」は天から降って来ます。 しかし、その前に彼は人々から見捨てられ、苦しめられ死に、そして復活しなければなりません。 ご自分の命を与えることで「人の子」は自分の命を救うと同時に、罪と死から全人類を救います。 「人の子」の召命を詳しく説明しながら、イエスは自分の後に従いたい人は、勇気を持って死に打ち勝つ、この同じ苦しみの道を歩むように誘います。 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。
毎日曜日に皆で声を合わせて教会の信仰を宣言することも、キリストの死と復活を祝うことも、とても良いことです。 ご存知のように、イスラム教の人々はイエスを偉大な預言者として認めますが、彼の苦しみと復活を否定しています。 「イエスはとても聖なる人間だったので、神は彼が苦しむのを許さなかった」と彼らは主張します。 しかしイエスは何回も自分の受難の悲劇について説明しました。 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と。
「私は何者だ」とイエスは尋ねます。 キリストの後に忠実に歩んだ人だけが、この質問に正しく答えることができます。 まず、洗礼によってキリストと共に死ぬこと、そしてキリストと共に復活することを決意すること、次にキリストのように自分の命を捧げる決意をすること、これらの決意なしには人は決してイエスを正しく知ることができません。 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのです」とイエスは、はっきり教えていますから。 キリストのために生きること、キリストのために死ぬことは大きな利益となります。 なぜなら、それは神のいつくしみの手に自分自身のあらゆる面を委ねることですから。 キリストのために生きることも死ぬことも、それは聖性への道を歩むことです。 確かに、キリストと親密に一致している人は、キリストと共に自分自身を捧げながらこの世を救います。 キリストを知ることは、結局自分自身を知ることや自分の人生の意味を知ることであり、また神にとって自分の命が値高いものだと知ることでもあります。
受難の数日前に、イエスはフィリポに次のように説明しました。 「わたしを見たものは、父を見たのです」(ヨハネ14,9)と。 いつくしみの特別聖年の祈りが教えているように、私たちは弱さを身にまとっています。 それは私たちが無知と過ちの暗闇の中を歩む人々に対する、イエスのいつくしみを感じるためです。 同時に、私たちは救い主キリストを身にまとっています。 それはまた、私たちに出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、赦されていると感じることができるようになるためです。
ですから、あがない主であり救い主であるイエスに私たちをますます親密に結びつける信仰の賜物、洗礼の恵み、教会の秘跡のために神に感謝しましょう。 また聖霊の力によって、私たちの心の中に注がれている愛といつくしみのためにも(参照:ローマ5,5)神に感謝しましょう。 更に、命ある限り、絶えず、喜びのうちに、神のいつくしみを祝い、ほめ讃えましょう。 アーメン。
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